皆さま、こんにちは。
今回は、今津⇔小浜・若狭を結ぶ九里半街道についてです。九里半街道の滋賀県側の区間のうち、特に、特徴的な区間である、保坂~熊川まで歩いてきました。
廃神社、琵琶湖と若狭湾の分水嶺である水坂峠、関所があった限界集落、さらに、滋賀県公認の廃道など、見どころたっぷりです。
なお、当記事と同じ内容の動画もございます。
前編(保坂~山中):https://youtu.be/KRfXjkRBwjU【13分20秒】
後編(山中~熊川):https://youtu.be/1qcTjCxVbWg【10分20秒】
この前編と後編の動画のテキスト版がこの記事です。
九里半街道とは
九里半街道は、小浜・若狭⇔今津を結ぶ、重要な街道でした。現在は、九里半街道と並行する形で、国道303号線が通っています。
小浜・若狭から、海産物などが今津へと運ばれ、今津からは琵琶湖の水運が活用されていました。
江戸時代、熊川は宿場、山中は関所となっておりました。
また、保坂からは、今津方面ではなく、南側の朽木や葛川・京都へと抜ける街道もあります。こちらは、若狭街道です。
小浜・若狭から京都へ、たびたび、鯖が運ばれていたことから、鯖街道と呼ばれることもあります。
私は、九里半街道の中で、特に、特徴的な区間である、保坂から熊川までを歩きました。
近江今津駅からは西日本JRバスを利用して、保坂まで行きました。
九里半街道の保坂までの区間の一部は、陸上自衛隊饗庭野演習場により、消えてしまっています。
また、九里半街道は、北生見や追分といった地区を経由して保坂へと通じていましたが、現在、北生見や追分の集落は、跡形もなく消えてしまっています。
饗庭野演習場の拡張に伴い、全住民が移転してしまったのです。JRバスからは、集落跡を確認できました。
【前編】保坂~山中
まずは、保坂から山中までです。
上に埋め込んだ動画の内容は、これから述べることと同内容です。
なお、今回は、歴史を感じるために、可能な限り、旧道を歩きます。
西日本JRバス若江線の保坂バス停を降りましたら、保坂の集落へと少し歩きます。
なお、路線バスは、保坂バス停より先は、1985年(昭和60年)に開通した水坂トンネルを通ることになります。
私は、水坂トンネルの上を通る旧道を歩くことになります。
保坂地区
さて、国道303号沿いにあった保坂バス停より、旧道へと移動してきました。上の写真は、旧道から見た、保坂の集落です。
山間にある、のどかな集落といった印象を抱きます。前述の通り、かつては、九里半街道と若狭街道の合流点・分岐点でしたので、非常に賑わった場所でした。
実は、保坂の集落内には、旧旧道が通っています。やはり、歴史を感じるためには、古い道を通るのがよいでしょう。
旧旧道には、三叉路がありまして、3つの方向を示した道標があります。
下記の通り、文字が彫られていました。
- 左 わかさ道
→水坂峠、若狭・小浜方面 - 左 志ゅんれいみち
→今津方面、志ゅんれいみち=西国三十三所観音巡礼の道(松尾寺の次が竹生島ということで、九里半街道を通っていた) - 右 京道
→若狭街道、朽木・葛川・京都方面
旧旧道は、集落内を通過すると、山道になってきます。
途中で、倒木や砂防ダムにより、これより進むことができない場所へと到達します。その場所からは、旧道へと戻る道がありましたので、旧道に戻るようにしましょう。
☆2つの神社跡
保坂集落~水坂峠の間には、2つの神社跡があります。
1つ目は、弁財天宮跡です。こちらは、旧旧道から旧道へと戻る途中にありました。
現在は、ひっそりと、石碑だけが設置されていました。
弁財天宮跡を見た後、いったん、旧道に戻りまして、水坂峠へと歩いていると、谷筋(旧旧道方面)へと続く分かれ道があります。
その道を進んだところにありますのが、もう1つの、神社跡。金毘羅宮跡です。
こちらは、鳥居や石段も残されていましたが、拝殿などはやはり残されていませんでした。
2つの神社ともに、九里半街道沿いにあったということになります。かつては、街道を通る多くの人が参拝をしたのではないかと想像されます。
場所
金毘羅宮跡を示しています。金毘羅宮跡の少し南側に、弁財天宮跡があります。
水坂峠
2つの神社跡を見ましたら、再び、旧道へと戻ります。
しばらく、旧道を歩いておりましたら、水坂峠に達します。
ここは、琵琶湖と若狭湾の分水嶺となります。したがって、これより先で見る川は、北川水系。若狭湾へと流れ出ていくということになります。
水坂峠を過ぎますと、カーブを描きながら、下っていき、一度、現国道に合流します。
☆関所のあった山中地区
現国道をしばらく歩きますと、旧道への分かれ道がありますので、そちらへと行きます。
この場所は、滋賀県今津町杉山。杉山の山中地区となります。
杉山は、上大杉と山中の合成地名。1874年に上大杉村と山中村が合併をして、杉山村が誕生しました。そして、現在も、杉山という大字が残っているということになります。
山中には、江戸時代、幕府によって関所が置かれていました。
山中関は、江戸時代、九里半街道における唯一の関所でした。したがって、山中は、かつて、非常に重要な場所だったのです。
山中地区を歩いていて、当時の九里半街道の雰囲気が、よく伝わってきました。
しかしながら、現在は、ひと気がほとんどなく、空き家も目立ちました。
ただ、街灯がありますし、電機や水道も通っておりましたので、廃集落ではないようですが、、、、限界集落であることに間違いはないでしょう。
かつての重要な場所の現在の姿には、驚かされましたし、少し寂しい気持ちになりました。
場所
※上のグーグルマップは、山中地区内にある太陽寺の場所を示しております。
【後編】山中~熊川
続きまして、山中から熊川までです。
上に埋め込んだ動画は、以下、述べる事柄と同内容となります。
☆寒風トンネル旧道・廃道
山中と上大杉を結ぶトンネルが寒風トンネルです。寒風トンネルは、1980年(昭和55年)に開通しております。
したがって、そのトンネル近くを見渡すと、きっと、旧道が見つかるはずです。周囲を確認すると、トンネルの手前に、左側へと曲がっていく道を発見いたしました。
これこそが、寒風トンネルの旧道、そして、江戸時代からの九里半街道のルートでもあります。
旧道の方へと行きました。すると、標識がありまして、「この道路は㾱道ですので立入らないで下さい。 滋賀県」と書かれていました。
滋賀県という文字は、葉っぱによって隠れてしまっていますが、まさに、滋賀県公認の廃道ということになります。
安全第一のため、この標識にしたがって、これより先へは進まず、上大杉側から、旧道へとアプローチすることにします。
寒風トンネルを出てすぐにあるのが、新寒風川橋。この橋を渡ると、旧道が見えてきます。車止めがありますので、車の方は進入できません。
上大杉側から旧道を少し進むと、2つの岩があります。実は、文字が刻まれているので、石碑となります。
右側の石碑
1823年(文政5年)に設置されました。はっきりと読める文字は、「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)です。
当時、道普請(道路の修繕工事)を行っていた玄道という人物がなくなり、工事が中断したため、彼を供養するとともに、工事を引き続き推進したいということをあらわしています。
左側の石碑
1831年(文政13年)に設置されたものです。祈請道祖神(きせいどうそしん)云々と記されていますので、安全を祈願したものということになります。
石碑のある場所から少し進むと、やはり、例の「滋賀県公認廃道」を示す標識がありました。したがって、これより先へは行きません。
標識のある場所は、既に、多くの落石があり、道路は草に覆われています。さらに、道路の一部が崩壊してしまっています。
道路状況が極めて悪いことがよくわかります。ちなみに、この近くには、廃車が放置されていました。
標識の先にあるのが、寒風橋です。寒風橋やその周辺は、江戸時代、たびたび、大雨や大雪の被害を受けたことが知られています。
災害により、物資の輸送が滞ることもあったようです。
場所
寒風トンネルの場所を示しました。旧道は、寒風トンネルの南側の川沿いを通っています。
大杉、県境
寒風トンネルを過ぎて、しばらく歩くと、再び、旧道が現れますので、そちらへと行きます。
旧道を少し歩くと、集落が見えてきます。この地域が、上大杉となります。前述した通り、杉山は、上大杉と山中の合成地名です。もともとは、上大杉村でした。
上大杉地区を少し歩くと谷川があります。谷川が、滋賀県と福井県の県境です。
谷川をこえると、福井県若狭町熊川です。
字が、大杉ということで、近江の上大杉に対して、下大杉ということがあります。
下大杉の集落を過ぎると、再び、現道に合流します。
道の駅若狭熊川宿
下大杉を過ぎて現道に入ると、すぐに、道の駅が見えてきます。
その道の駅が、「道の駅若狭熊川宿」です。
九里半街道における唯一の宿場が、ここ、熊川に置かれました。道の駅は、宿場をイメージしたつくりでした。
熊川の集落については、バスの時間が迫っていた関係で見に行きませんでしたが、非常に景観の良い場所ですので、ぜひ、訪問してみてください。
最後に
いかがでしたでしょうか。九里半街道の保坂~熊川には、数多くの見どころがあります。
神社跡や関所のあった山中地区は、歴史を感じられる場所です。
また、寒風トンネル旧道は、廃道マニアにとっては名高い場所となっております。
ただ、標識のある場所より先は、立ち入り禁止です。自身の安全を守るためにも、標識の注意書きには、しっかりと従うようにしましょう。
ぜひ、九里半街道を歩くなり、走るなりしていただけますと幸いです。