滋賀県大津市の文化ゾーン・西駐車場から歩いて奥まで行くと、源内峠遺跡というものがあります。さらに、その先には、瀬田と上田上を結ぶ源内道という道があります。当ブログ管理人は、源内道を実際に歩いてきましたので、今日は、その様子を紹介したいと思います。
本題に入る前に…、長沢川の読み方について
本題に入る前に、なぜ、源内道へ行きついたのかについて述べたいと思います。
実は、瀬田に長沢川という川が流れているのですが、私はその川の下流から上流へ自転車で走っていました。長沢川の源流を探るべく、川をたどっていたら、源内峠遺跡周辺にたどり着いだのです(長沢川の最も上流の部分は水無川でした)。
ところで、「長沢川」と書いて、何と読むかご存じでしょうか。実は、2通りあります。
第一に、
ながさわがわ
です。長沢川の上流は、このように読むようです。
第二に、
ながそがわ
です。「沢」という字を、「そ」と読むみたいです。長沢川の下流では、このように読むようです。
上流と下流で、川の名前の読み方が異なる、珍しい川であることがわかりました。
その長沢川の源流付近(水無川でしたが…)に、源内峠遺跡がありました。
源内峠遺跡とは
最初に、源内道の手前にある源内峠遺跡についてごく簡単に述べます。
文化ゾーンを含む大津から草津における少し標高の高い場所(瀬田丘陵)では、製鉄に関する遺跡が多くあります。その一つが、源内峠遺跡(瀬田丘陵生産遺跡群)です。7世紀後半の遺跡で、製鉄炉が4機あったということです。周辺で、大量の鉄滓も出土しています。
ここでつくられた鉄は、大津京はもちろん、その後の藤原京や平城京の造営に使われていた可能性もあります。
国の史跡に指定されていますので、ぜひ、ご覧になってください。そのすぐ奥に、源内道の入り口があります。
源内道を進む
源内道は、瀬田と上田上(芝原・中野)、そして信楽を結ぶ道でした。信楽に住んでいる人は、源内道が京都へ行く唯一の道だったようです。
もちろん、未舗装で歩行者専用となりますが、歩きやすい道でした。瀬田(文化ゾーン)と芝原の間を歩きましたので、以下、リポートしていきます。
源内道に入って、最初に気になったものは、電柱です。上の写真のように、1985年まで使われていた有線放送の電柱が今も残っていました。源内道の歴史は古いようですが、比較的最近の遺構も残っているということがわかりました。
少し進むと、
上の写真のような区間がありました。これ本当に大丈夫なのか?、と思わざるを得ないほど、左右がシダで埋め尽くされています。
そして、源内峠に到着です。峠という割には、登り坂がほとんどありませんでした。まあ、入り口の文化ゾーン周辺の標高が既に高いからでしょう。
源内峠をこえると、下り坂が始まります。上田上(芝原)へ歩いて、向かっていきます。
一瞬、少し開けた場所があります。木々の間から新名神高速道路を臨むことができます。源内道において、唯一、遠くを臨める場所です。といっても、展望台ではなく、木々の間からわずかに臨むことができる程度です。
さらに下っていくと、倒木があったりしたのですが、難なく通過することができました。
住宅が見えてきました。源内道の上田上(芝原)側に出ることができました。上の写真ではわかりにくいのですが、直進するか右折するかを選ぶことができます。直進すると、芝原の集落内につながり、そして、中野の集落にも行きつき、最終的には、大戸川沿いに出ることができます。
一方、右折すると、神社に行くことができます。私は右に行きました。
波穂神社を参拝
源内道の上田上(芝原)に出て、右に進むと、波穂神社へと出ます。
波穂神社は、近江国の一宮である、建部大社の分社だということです。地元の方々が、日々、手入れを行っているのでしょうか、きれいな神社でした。
波穂神社を参拝後、上田上から瀬田へと源内道をたどって、元の場所に戻りました。
終わりに
瀬田という人口密集地の外れに、源内峠遺跡や源内道があることに驚きをもたれた方もいらっしゃったのではないでしょうか。上に、源内峠遺跡ならびに源内道の瀬田側から入る場所をお示しいたしましたので、自然に囲まれた場所を歩きたいという方は、ぜひ、訪れてみてください。