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今こそ読みたい。土居健郎著『「甘え」の構造』の感想。

文字と本

今日は、土居健朗著『甘えの構造』(増補普及版、新稿「甘え」今昔収録)について記します。昭和46年に、初版1刷が発行のため、やや古い本ですが、現代の通ずるところが多々あります。今、再び、この名著を読んでみませんか。ここで、まず、甘えの定義について確認します。

一方が相手は自分に対し好意を持っていることがわかっていて、それにふさわしく振舞うことが「甘える」ことなのである。ここで肝腎なのは相手の好意がわかっているということである。

『「甘え」の構造』p. 4

親しい二者関係依存関係というのが重要になります。例えば、親子関係について考えると分かりやすいですよね(幼時において甘えることはとても大事なこと)。なお、甘えは、特に、日本人が慣れ親しんでいる感情です。

この甘えに関する基本的な考え方がわかれば、おそらく、一通り理解できると思います。ぜひ、手に取ってみてください。

こんな人におすすめ

  • 「甘え」概念をもとに、日本人論を理解したい人
    →「甘える」という概念は、日本独特だといいます。著者は、西洋と日本を比較しながら、日本人論をわかりやすく語っています。
  • 甘えることは悪いことだと思っている人
    →日本人は、無意識で甘えていることが少なくありません。どういうことなのか、是非、本書で確認してみてください。なお、著者は「甘やかし」や「甘ったれ」には否定的です。
  • ギスギスした世の中に疲弊している人
    →甘えとは一見関係がないように見えますが、本書では、ギスギスした世の中がいかにして起こっているのか示唆してます。

遠慮をする?遠慮をしない?

では、私が興味深かった点を述べます。まずは遠慮についてです。

遠慮というのは、相手の好意に甘えすぎないように行います。しかし逆に言うと、遠慮は、相手に嫌われないようにする、すなわち相手に甘えるために行っているともいえるようです。

さて、皆さんは、どのような人に対して遠慮をしますか。おそらく、知人や友人だと思います(例外として、親友などに対しては遠慮しないかもしれない、遠慮の範囲は曖昧です)。逆に、身内には遠慮することはほとんどありません。言われればその通りですが、私はこのようなことを意識したことがありませんでした。以下の引用文で確認してみてください。

いま遠慮が働く人間関係を中間帯とすると、その内側には遠慮がない身内の世界、その外側には遠慮を働かす必要のない他人の世界が位置することになろう。

『「甘え」の構造』p. 63

ところで、余談ですが、こんな場面があるかもしれません。

どっかの政治家

国の予算でお花見会を開くから、来ないか?

どっかの有権者

喜んで参加いたします。

日本人にとって、public≠外private≠内だとのこと。遠慮を要するべきでない人まで、内とみなされるわけです。しかも、その考え方が日本社会で容認されているといいます。それ故に、公共物の私物化が起こりうると説明されています。

公共物の私物化は、現在も、政治の世界で問題となっています。当ブログは、そのような政治の問題を取り上げるようなものではないため、これ以上は述べないことにしますが、この考え方は現在にも通じますし、不変といってもよいのかもしれません。

著者は学生紛争に否定的

吹き出し

さて、私が、一番印象に残った部分を取り上げたいと思います。

それは、土居先生が学生紛争の参加者をどのように見ているかについてです。いわゆる、ニューレフトと言われる人々のことですが、否定的に取り上げられていました。彼らは、(例えば、ベトナム戦争の被害者やビアフラ戦争のような)被害者を無視したい気持ちがあることを認めるとのことです。そのうえで、

すなわちここで彼らは素早く否定の論理によって自己の特権を否定するのであるが、ではそうすることによってよきサマリア人のごとく被害者を実際に助けるための手を打つかというと、そうではない。彼らは却って被害者と同一化してしまうのである。この同一化は自己否定と同時に起こるといった方が正確であろう。というのは彼らはまさに被害者と同一化することによって自己の固有の存在を否定し、またそれ故に罪悪感をも止揚してしまうと考えられるからである。かくして彼らは自らも被害者となって、被害者を見過ごす人々を詛ったり、あるいはもっと積極的に加害者を攻撃するようになる。

『「甘え」の構造』p. 266

まず、(学生紛争でお馴染みの)「自己否定」と同時に被害者意識が彼らの中に出てきます。なお、被害者意識は、幼い時に甘えを享受できなかった人に芽吹きやすく、何らかの被害者と自分を同一化することにより、充実感を得る行為だといいます。

被害者意識は、心を痛める行為です。当たり前だと思います。しかし、学生紛争の参加者は連帯しています。それ故、自分たちの罪悪感というものが感じられなくなり、攻撃的になるのです。これは、自己満足たるものだということです。

いかがでしょうか。非常に、明解な分析をされていると感じました。私は、現在、大学生ですが、なぜ当時の学生運動があんなにも過激だったのかよくわからなかったものです。土居先生の解説を読み、納得しました。

現代も…

困っている人

私は、この考え方は現代にも通用すると思います。例として、ツイッターによる凶悪事件の加害者バッシングをあげたいと思います。もちろん、どんな理由があれ、犯罪を犯すことはあってはなりません。殺人なんてもってのほかです。

ただ、ツイッターによる加害者のバッシングは、非常に違和感を抱いています。確かに、加害者の批判はあってしかるべきです。しかし、ツイッター上では、通常、人に対しては言わない言葉を使って平気でバッシングしています(死ね、消えろ etc.)。私は、こんな空間に居ても立っても居られません。心を痛めました。(※当ブログ管理人は、ツイッターを使っていないが、ヤフーのリアルタイムから確認することができる)

ということで、上で述べたことを土居先生の考え方に当てはめてみます。ツイッターなどで、凶悪事件の加害者をバッシングすることは、すなわち、被害者意識があるからです。しかし、ツイッターはフォロワー同士でつながっています。目には見えませんが、大きな連帯なのです。それ故、現実世界では、使うべきでない、汚くて心無い言葉を平気で使って、加害者をバッシングしているということになるんだと思うわけです。かといって、バッシングする人は、例えば、被害者の心のケアにあたるといった、救いの手を差し伸べるわけでもありませんから(加害者をバッシングすることが被害者に救いの手を差し伸べていると考えているのだろう)。

もう一度繰り返しますが、加害者を批判することはあってしかるべきです。しかし、言葉遣いがダメなのです。

また、ある人が、加害者の更生について唱えたら、明らかに叩かれるでしょう。これは、土居先生の言う「被害者を見過ごす人々を詛う」ことを意味すると思います。

一番驚いたのは、ツイッター上で犯人でない人が叩かれていたことです(某煽り運転事件における犯人の妻の例です)。誰かがネット上で、適当に、この人が犯人だ、などと言ったのでしょう。それがたちまち、拡散していき、叩かれました。冷静にファクトチェックができなかったのですかね…。

そのほかにも、犯罪ではないが不適切な行動をした者をバッシングすることも、同じことがいえるでしょう。

このような、ギスギスした空間は、とても居心地の悪いものです。

最後に

最近、世間では、甘えは悪いものとして見られる傾向がありますが、決して悪いものではありません。日本人は、甘えることが無自覚であることも少なくありません。

『「甘え」の構造』は、やや古い本ですが、現代に通ずるところが多々あります。ぜひ、手に取ってみてください。

  • この記事を書いた人

undecided

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