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地元民がご案内!唐橋からすぐの瀬田城跡!

瀬田城趾

滋賀県大津市の瀬田城(勢田城・山岡城)跡に行ってまいりました。といっても、そもそも、「瀬田城ってなんやねん」「跡地なんてどこにあるねん」といった声が聞こえてきそうです。したがいまして、滋賀県在住の当ブログ管理人が、解説します。

※瀬田と勢田は同じ地名ですが、現在は、瀬田が一般的です。

瀬田城跡の外観

瀬田城跡

上の写真が、瀬田城跡です。これだけです。

瀬田城跡の裏(東)に、柵が見えると思いますが、その奥には、大きな近代的なマンションが建っています(下の写真)。

瀬田城跡の裏にあるマンション

そして、瀬田城跡の前には、県道が走っており、かなりの車が行き来します(車が来ないタイミングでシャッターを切っている)。

現在は、もはやここに、お城があったとは思いもしないような光景になっています。ただ、すぐ近くに瀬田の唐橋があります。実は、瀬田の唐橋と瀬田城には深い関係がありました。

瀬田城は軍事目的の城

瀬田城の歴史

上の石碑に、瀬田城の歴史について詳しく記されていますので、これをもとに、瀬田城とはどのような城だったのか述べます。

まず、端的に、瀬田城は軍事目的の城でした。なぜなら、すぐ近くに、瀬田の唐橋(瀬田橋)があるからです。「唐橋を制する者は天下を制す」といわれたあの、瀬田の唐橋です。この瀬田の唐橋を潰すと、対岸に渡れなくすることもできるので、城主は瀬田の唐橋を監視していたわけです。

瀬田の唐橋
瀬田の唐橋

瀬田城は1429年、甲賀武士の流れをくむ佐々木氏家臣の山岡景房(=山岡資広?)により築かれました。これ以来、瀬田城は山岡氏の居城となったのです。それ故、瀬田城は、山岡城とも呼ばれるのです。

そして、時代がとび、山岡氏9代の、山岡景隆の時代。景隆は織田信長に仕えました。そのため、織田信長は、瀬田城を、たびたび、宿所にしていました。しかし、その織田信長は、1582年6月21日に明智光秀に襲撃され、自害しました(本能寺の変)。

そして光秀は、安土城を取るために、隆景を味方にすべく使者を送りました。その後の、景隆のエピソードが興味深いですので、石碑の文言を引用します(句点がなく、少し読みづらいですが我慢してください)。

隆景固く義を執りて応ぜず橋を焼き西岸の舟を集めて之を断つ

なんと、隆景は、光秀らの進軍を防ぐべく、唐橋を焼き落してしまいました(瀬田城も焼いてしまった→その後廃城)。それ故、光秀は、安土城に入るまで3日を要したようですので、これは、天下のあり様に大きな影響を与えたのかもしれません。

石碑は、その後、徳川家康一行を先導したといったことが記されています。そして、この地(マンション)は、現在、臨湖庵と呼ばれているということが書かれています。

アクセス

瀬田城跡は瀬田の唐橋のすぐ近くにあります。

駐車場はありませんので、公共交通機関を利用するのがよいでしょう。京阪石山坂本線の唐橋前駅を下車し、唐橋を渡って、瀬田城跡を訪れるのがおすすめです(所要時間は10分程度)。ただ、瀬田城跡は、歩道のない県道沿いにあり、交通量も少なくありません。その点は、注意する必要があります。

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