世間で、「急がば回れ」ということわざを聞くことはよくあると思います。この「急がば回れ」ということわざの由来が、実は滋賀県にあることはご存知ですか。今回、当記事執筆のため、実際、当ブログ管理人(滋賀県民)が、語源・由来となった重要な場所を訪れました。本日は「急がば回れ」の語源・由来について、私の現地訪問の経験とともにお話しします。
「急がば回れ」の意味と用法
先に、「急がば回れ」の用例と意味を確認しておきます。
まず、私の手元にある国語辞典から、意味を引用しましょう。
急ぐと、とかく失敗が多いから、遠回りしても安全な道を選んだほうが、早くなるというたとえ。
小学館『新選国語辞典第九版 二色刷』より
意味については、おそらく、多くの方はご存じでしょう。
次に、当ブログ管理人が考えた用例を2つ記しておきます。
①数学の応用問題集の問題を解けるようになりたい。ただ、私は数学の基礎・基本を身に着けていないため、急がば回れで、先に基礎問題集を購入しよう。
②会社に遅れそうだが、いつも使わない抜け道へ進んでも迷ってしまいそうだ。やはり、急がば回れで、いつもの道を使って通勤しよう。
「急がば回れ」の語源・由来
お待たせいたしました。では、「急がば回れ」の語源・由来について、滋賀県民の当ブログ管理人が詳しく解説します。
まずは、歌を見ていきます。
宗長の歌
「急がば回れ」の語源・由来は、以下の歌からだといわれています。
もののふの 矢橋の船は 速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋
室町時代の連歌師である宗長の歌です。
上の歌に「急がば回れ」という文言が入っていますよね。この歌を理解できると、「急がば回れ」の語源・由来を理解できたのも同然です。簡単に、この歌が書かれていることを解説しましょう。
(ちなみにですが、高校の古典の教科書に、この歌が掲載されていました。懐かしいー)
単語の意味
〇もののふ…武士のことです。といっても、あまり意味を持たない(武士が持っている矢と地名の矢橋を結び付けていると解釈してよい)。
〇矢橋…地名です。「やばせ」と読みます。現在も、滋賀県草津市矢橋町という地名がある。
〇瀬田の長橋…瀬田の唐橋のことです。
歌の解釈
(草津から大津・京都へ行く際、)確かに矢橋から(石場へ)の渡し舟は速いけれど、(比叡おろしなどの強風により、かえって時間を要する場合があるから、)瀬田の唐橋まで回って行ったほうがよい。
図で理解する
文字情報だけでは、理解しかねるかもしれませんので、地図などを使って、できるだけわかりやすく説明しましょう。
以下の地図は、青ルートが渡し舟を使うルート(草津宿~東海道~矢橋道~矢橋港~琵琶湖~石場)、赤ルートが陸路・唐橋経由(草津宿~東海道~石場)を表しています。
※矢橋帰帆島など、当時は陸地でない場所があります。
距離は、渡し舟を使うルートが約10km、陸路が約14kmです。草津から渡し舟を使って大津・京都へ行くほうが早いことは明確でしょう。
実際、江戸時代にはこんな歌まで詠まれているのです。
勢多へ回れば三里の回り ござれ矢走の船にのろ
歌の解釈
勢多の唐橋経まわると、三里も遠回りなので、それなら、矢橋からの渡し舟に乗って大津・京都へ行きましょう。
「あれ?急がば回れと矛盾しているのではないか?」と思われた方もいらっしゃると思います。この歌は江戸時代に詠まれた一方、「急がば回れ」の歌は室町時代に詠まれました。したがって、時がたつにつれて、舟の技術が向上していることが考えられましょう。
ただ、「急がば回れ」と言われる所以として忘れてはならないことがあります。
それは、比良おろしです
上図のように、比叡山方面から風が吹き下ろしおてくる場合があります。比良おろしと言います。比良おろしが吹くと、強風になります。
この比良おろしが吹くのは、主に、西高東低の冬型の気圧配置が強くなる冬です。冬の琵琶湖(ここでは南湖)は風が強くなるわけです。したがって、比良おろしが吹いている際、矢橋から渡し舟で石場へ向かおうとしても、なかなか進めないし、場合によっては転覆する可能性もあったのです。したがって、「急がば回れ」なのです。
なお、比良おろしについては、今も変わりません。例えば、冬に近江大橋を自転車で渡ろうとすると、あまりに風が強く通常の倍近くの時間を要する場合があります。また、びわ湖毎日マラソンでは、帰路の膳所周辺(まさに石場付近です)は、選手たちが強風で苦しむことになるエリアとなります。
では、矢橋港とはいかなる場所なのか?実際に行ってきました。
矢橋港の跡地(矢橋公園)を見てきた
もともと矢橋港があった場所は、現在、公園になっています(上図、矢橋公園)。この矢橋公園の一角に、矢橋港跡があるのです。
ちなみに、ここ一体は、「矢橋の帰帆」として近江八景の1つとして知られています(今は、その面影もほとんどない…)。
最初に、江戸時代の石積突堤を見てもらいましょう
ここに舟が止まっていたわけです。昔は、ここも琵琶湖だったんだと、つくづくと実感しました。
次の写真は、1846年に建てられた常夜灯です。
今はもちろん常夜灯ではありませんが、これを見ると江戸時代の夜の矢橋港が想像できます。
そして、面白い石碑がありました。
少し見にくいですが、この石碑には与謝蕪村の俳句が刻まれています。
菜の花や みな出はらいし 矢走舟
石碑の横に、俳句の解説が記されていましたので、引用します。
石場へ渡ろうと矢走街道を港まできた。船の発着時はたいそう騒がしい矢走港も、昼の今は渡し船がみな出はらっていて静かである。港の周辺は一面の菜の花畑で、春風につつまれている。菜の花の黄色と白帆を浮かべた湖の青さが、靄のかかった背後の山々とよく調和して、まことにのどかな春の風景であることよ。
うーん。このような句を味わうと、今の矢橋が寂しく感じてしまいます。
矢橋港跡へのアクセス
まず、注意点です。自家用車での来訪はおやめください。道が狭いうえ、駐車場がありません。
公共交通機関か徒歩・自転車での来訪がおすすめです。公共交通機関の場合は、南草津駅から近江鉄道バスに乗り、矢橋バス停を降りて徒歩5-10分です。
対岸の石場周辺も見てきた
矢橋港の対岸、石場周辺も見てまいりました。まずは、石場の常夜灯の写真です。
現在は、びわ湖ホールの裏側に設置されています(当初は大津警察署付近にあった)。石場の常夜灯は、1845年に建立されました。渡し舟の目印とされていました。当時、水上交通がいかに盛んだったのか、物語ってくれる史跡となっています。
なお、現在設置されている場所は、もちろん、当時は湖でした。大津市中心部の湖岸埋め立ては明治以降に盛んになされていきました。
石場の常夜灯を、スケートボードの練習で使っている若者がいました。史跡ですので、そうしたことはやめてくださいね。
実は、近くに、もう一つ常夜灯があります。これは、小舟入の常夜灯です。
こちらは、1808年建立です。石場の常夜灯より古いということがわかります。実はここが舟着場でした。伊勢参りをする人々でにぎわったようです。
したがって、この地も、当時は琵琶湖でした。小舟入の常夜灯は道路の真ん中にあるのですが、なぜか、この場所だけ道路が広くなっているのです。その所以は、当時琵琶湖だったということなのかもしれません。ちなみに、左の写真の近代的な建物は滋賀県警です。
最後に
いかがでしたか。「急がば回れ」の語源・由来は、滋賀県・琵琶湖にあるということをごりかいいただけたでしょうか。
なお、現在、渡し舟はありませんが、その代わりに、近江大橋が東西に走っています。草津からは、今も唐橋を使わずに大津・京都へ行くことができるようになっています。