紀貫之は、平安時代前期にかけて活躍した歌人です。誰もが、その名を一度は聞いたことがあるでしょう。
日本史上初の「勅撰和歌集」である『古今和歌集』の筆頭撰者となったことや、『土佐日記』を書き記したことで有名です。
そんな紀貫之の墓は、実は、滋賀県大津市の比叡山中腹にあることはご存じでしょうか。
比叡山からの琵琶湖の景色を愛したという紀貫之。
他界したら、琵琶湖の見える比叡山中にお墓をつくってほしいと、生前、希望していたとのこと。
私は、紀貫之の墓の存在は知っていたものの、一度も、行ったことがなかったので、先日、紀貫之の墓へと、登山をして、訪れてきました。
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登山ルート
まずは、紀貫之の墓へのルートを確認いたしましょう。
紀貫之の墓は、比叡山の中腹にある「裳立山(もたてやま)」の山頂にあります。標高は595mです。
坂本ケーブル(比叡山鉄道)のもたて山駅が最寄り駅となりますが、私は、麓から登山をして伺うことにいたしました。
歩いた道は、「無動寺道」と呼ばれている道です。その名の通り、比叡山の「無動寺」へと向かう道です。
途中で、裳立山方面の道は分かれます。無動寺道から外れて、少し登ったところに、紀貫之の墓がありました。
ちなみに、帰路は、坂本ケーブルと無動寺道の間にある登山道を歩いて、下山いたしました。
登山をされる場合は、登山に必要な最低限の装備を身に着けるようにしましょう。
無動寺道を歩く
紀貫之の墓へと無動寺道を経由していく場合は、京阪電車の松ノ馬場駅からスタートするのがおすすめです。松ノ馬場駅は、坂本比叡山口駅の1つ手前の駅です。
駅を出て、比叡山方面へと上り坂を歩いていくと、地蔵尊と丁石がありました。丁石とは、距離を示すことを目的として設置された石柱のことです。ここにあったのは、無動寺の丁石。
丁石には、「比叡山無動寺不動明王弁財天女道是より二十五丁」と書かれていました。
つまり、25丁(1丁が約109mですので、約2.7km)歩くと、比叡山の無動寺へと行くことができることを示しています。
丁石の右側の細い道が、無動寺方面へと続く道です。
県道を渡ると、山道になってきます。途中、車止めがありますので、車止めはそのままこえていきましょう。
大津市企業局坂本配水池を過ぎたあたりから、未舗装になります。
無動寺道は、しっかりと整備されておりまして、傾斜が大きい箇所は、石段がございました。
なお、無動寺は、千日回峰行の拠点となっている場所です。
千日回峰行は、千日弱、比叡山の山中を歩き続けて、礼拝をし続ける修行のことです。
9日間、無動寺にこもって、食事と水を絶って、一睡もせずに真言を唱え続ける堂入りの修業は、よく知られているところだと思います。
もし、修行を続けられない場合は、自害が求められるのです。それほどの覚悟で、千日回峰行に挑む必要があるのです。
無動寺道は、千日回峰行のルートですので、しっかりと整備がなされているのかもしれません。
無動寺道を歩いていると、丁石を発見いたしました。これは、何と、紀貫之の墓の丁石です。
「紀貫之卿墳墓従是西北九丁」と書かれていました。残り約980m、登山道を歩いていくということになります。
登山道の一部が崩壊している箇所を見つけました。やや、道が狭くなってはいるものの、通行に支障はほとんどありませんでした。
また、鎖が設置されておりましたので、少し怖いようでしたら、右側の鎖を触りながら進んでいくのがよいでしょう。落下しないように慎重に歩いていきましょう。
しばらく、整備された道を歩くと、非常に素晴らしい景色を見られる場所に出てきました。
唐崎~坂本の街並みや琵琶湖、さらに、対岸の草津方面も一望できました。
無動寺道では、ところどころで、景色を見られる場所があるのですが、最も開けた場所がこちらとなります。
無動寺道を別れる
そして、開けた場所からすぐの場所に、またまた、紀貫之墓の丁石がありました。残り5丁歩けば、紀貫之の墓に到着いたします。
実は、この場所から、無動寺道を別れます。
上の写真において、左へと進むと無動寺道(無動寺方面)、右へと進むと紀貫之の墓(裳立山)方面となります。紀貫之の墓へと行くには、右へと進みます。
無動寺道は非常にしっかりと整備されていて、歩きやすかったのですが、無動寺道を別れると、一気に勾配が大きくなりました。
傾斜を緩めるために、九十九折の道となっていました。ただ、ところどころに、道しるべが設置されておりましたので、迷うことはありませんでした。
九十九折の箇所を過ぎると、尾根道のようになってきます。尾根道へと来たら、まもなく到着です。
紀貫之の墓に到着
紀貫之の墓へと到着いたしました。また、裳立山の山頂(標高595m)でもあります。
松ノ馬場駅から1時間ほどで到着いたしました。
こちらが、紀貫之の墓です。
「木工頭紀貫之朝臣之分」(もくのかみきのつらゆきあそんのふん)という文字が刻まれていました。
紀貫之は、平安時代前期に活躍をした歌人です。『古今和歌集』の撰者であったことや、土佐から京へ戻るときに記した『土佐日記』の作者であることで有名です。
また、百人一首には、「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」という紀貫之の歌も収録されています。
紀貫之は、930年(延長8年)から934年(承平4年)にかけて、土佐国の国司をつとめました。
土佐国国衙は、現在の、高知県南国市比江にありました。
そのため、南国市から、定期的に、こちらの紀貫之の墓に参拝に来ている方々がいらっしゃるようです。
参拝記念の石柱などがたてられていました。
険しい登山道で下山
さて、下山時は、地形図において、無動寺道と坂本ケーブルの間に記されていた登山道を利用しました。
この登山道ですが、非常に険しかったです。健脚向けの登山道でした。
険しい登山道が好きだという方は積極的に利用いただければよいのですが、あまり無理をしたくないという方は、無動寺道を利用されることをおすすめします。
この登山道をおりていくと、比叡山高校の野球場近くに通じます。その後、舗装路を歩いていくと、日吉東照宮や坂本ケーブルのケーブル坂本駅へと行くことができました。
アクセス
名称:紀貫之の墓
住所: 滋賀県大津市坂本本町4220
アクセス:もたて山駅下車 徒歩20分
登山をするのが嫌だという方は、坂本ケーブルをご利用ください。
坂本ケーブルのもたて山駅で途中下車するということになります。
坂本ケーブルを利用されるときに、係の方に、もたて山駅で下車する旨を伝えておくと、もたて山駅で停車をしてくれます。
何も伝えなければ、もたて山駅は通過してしまうので、ご注意ください。