粟津の戦いで自害した今井兼平の墓が、石山駅の北口から徒歩数分の所にあります。墓のある場所付近は、まさに、粟津の戦いの戦地とみられる場所です。大津市民の私は、粟津の戦いの存在は知っていましたが、今井兼平の墓があるとは知りませんでした。実際に訪れましたので、現地の様子をリポートします。
粟津の戦いについて
まずは、粟津の戦いについて触れておく必要がありましょう。
『平家物語』の「木曽の最期」で、粟津の戦いについて触れられています。私は、高校時代に、古典の授業で該当部分を読みました(教科書に載っていたから読まされたのか、地元の高校に通っていたから読まされたのか、どちらかは忘れましたが…)。
平家物語の該当する箇所を引用してもよいのですが、わざわざ一文一文読む方も少ないかとお察ししますので、割愛します。ここでは、粟津の戦いのエピソードなどを、該当部分も参照して述べるにとどめておきます。
粟津の戦いは1184年に起こりました。治承・寿永の乱1つです。
1180年に、後白河法皇の子である以仁王の呼びかけにより、平氏を倒すべく源氏が立ち上がりました。しかし、その一人であった木曽義仲(源義仲)は、1183年に京都へ進撃したのをきっかけに後白河法皇の信頼を失いました。その後、法王は、源頼朝に義仲を討つように命じ、その弟の範頼・義経が討伐に向かったのです。義仲らは宇治川の戦いで範頼・義経に大敗し、(離脱者も出て、最終的に)残った義仲や今井兼平(義仲の乳母子)は、北へ逃亡を図りました。しかし、義仲・兼平らは先を回っていた範頼・義経軍に粟津で遭遇しました。
しかし、義仲軍は、兼平を含め数騎だけ。もう、どうしようもありません。そこで、兼平は義仲に対し、粟津の松原の中で自害するように助言しました。しかし、義仲は兼平と同じ場所で討ち死にしたいと。兼平は義仲に対し、身分の低い武士に討たれて死ぬという不名誉なことは避けねばならないと諭し、義仲は了承しました。そして、義仲が自害するまで時間稼ぎをすべく兼平は敵50騎に矢8本で挑みましたが、その間、(義仲の馬が深みにはまってしまい、自害する前に)義仲は石田為久によって矢を射抜かれ、首を取られてしまいました。これを見た、兼平は刀を口に含んだ状態で馬を飛び降り、自害を果たしました。
以上、粟津の戦い、すなわち木曽の最期について簡単に記しました。少し長くなってしまいましたm(__)m
兼平の墓について
そして、今井兼平の墓が、墨黒谷(すぐろだに)につくられました(今、墓がある場所とは異なる場所です)。この墨黒谷ですが、現在は地名として残っていません。したがって、正確な場所をわかりかねるのですが、案内板によると篠津川の上流と記されていますので、茶臼山公園辺りではないかと推測します。
その後1661年、粟津の戦いの戦場にほど近いとみられる、現在の場所に墓が移されたのです。
ちなみに、木曽義仲の墓は、勘が鋭い方はお察しかと思いますが、義仲寺にあります。近く、私も義仲寺を訪れ、当ブログでリポートしようかと考えています。
兼平の墓をリポート
では、今井兼平の墓をリポートします。上の写真の地点が入り口です。石碑の横には、井戸があります。石碑・井戸を越えて奥に進むことができますので、行ってみました。
一番奥まで行くと、上のような光景が見られます。これが、今井兼平の墓とみられます。
このほかにもいくつかの碑があったのですが、解読不能のものもありました(下の写真)。粟津の戦いに関する予備知識を得たうえで、ぜひ、今井兼平の墓を訪れてみてください。
アクセスなど
今井兼平の墓は、住宅街の一角にあります(東レの工場も近くに有)。石山駅北口から歩いて5分ほどの場所にあります。石山駅は新快速も停まりますので、非常にアクセスが良いですね。一方で、車での訪問は難しいとお考え下さい。一応、駐車スペースらしき場所があったのですが、私有地のためなのか?、既に車が止まっていました。
上述しましたが、木曽義仲の墓は義仲寺にあります。義仲寺は、今井義仲の墓からは北へ約3.5kmのところにあります。義仲寺を訪問したときの様子は、以下の記事をご覧ください。
参考記事:「義仲寺を訪問!木曽義仲、そして松尾芭蕉の墓所です。」(内部リンク)